ユヴァル・ノア・ハラリ著『21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考』

ユヴァル・ノア・ハラリ著『21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考』を読了しました。

新しいものの見方が入ってきて、好奇心がくすぐられ、「答え」よりも「問い」を与えてくれる、至福の読書体験でした。

ハラリさんの主張をまとめると、

「いま人類は、気候変動・テクノロジーの進展による社会の不安定化(大量失業や生物学的格差の発生、民主主義の危機など)・核兵器使用の危機という3つの脅威に対して、グローバルに協力して、さらに既存の枠組みを超えた新しい社会モデルを生み出して対応する必要がある。にも関わらず、人類は国家やイデオロギーなどのフィクション(虚構)にあまりに執着しすぎているので、グローバルな協力ができず行き詰まっている。まずは、私たちは無知を認めて謙虚になり、国家やイデオロギーへの執着から離れた心で、いま世界で起こっている現実をありのまま観察することから始める必要がある。そのためには、個人的にはヴィパッサナー瞑想が役に立つように思う。」

というものでした。

ハラリさんは、いま世界で何が起こっているのか、何が今考えるべき優先順位の高い問題なのかを、すごく丁寧に読者に提示してくれています。そして読者の中にある常識や固定観念を優しく揺さぶってくれます。

そして、このように世界の現状をありのまま捉え、世界的ベストセラーの『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』を書くことができたのは、18年間ヴィパッサナー瞑想(ものごとをあるがまま見ることを目指す瞑想法)を続けてきたからだと言います。僕も12月にインドでヴィパッサナー瞑想に参加してみて面白いなぁと思ったのですが、ハラリさんは「私は自分の感覚を観察する10日間のこの講習で、そのときまでの全人生で学んだことよりも多くを、自分自身と人間一般について学んだように思う」とまで書かれていたのには驚き、ヴィパッサナー瞑想にさらに関心を持ちました。

ハラリさんは歴史学者ですが、テクノロジーや心理学、生物学、哲学なども広く浅く学ぶことでこれだけのビッグピクチャーを描いているらしく、分野横断的に学ぶのは本当に楽しそうだなと好奇心を刺激されました。

世界各地の政治や歴史にも触れられているので、これからも何度か読み返し、世界一周の旅の中で実際に見聞きすることと関連させながら、ハラリさんが提示している問いについて考えていきたいなと思いました。

21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考

以下、読書中ハイライトした箇所を、いくつか紹介したいと思います。

★私たちは、この世界のためにアップデート版の物語を創り出す任務を担わされた。産業革命の大変動が二〇世紀の新しいイデオロギーの誕生につながったのとちょうど同じで、来るべきバイオテクノロジーとITの革命も斬新なバージョンを必要としそうだ。だから今後の数十年間は、真剣に内省を行ない、新しい社会モデルや政治モデルを考案する時代になるかもしれない。自由主義は、一九三〇年代と六〇年代の危機の後にしたように、またしても自らを作り直し、かつてないほど魅力的になって蘇ることができるだろうか?伝統的な宗教やナショナリズムは、自由主義者が思いつかないような答えを提供しうるだろうか?そして、古来の叡智を活かして、現代にふさわしい世界観を作り上げることができるだろうか?それともひょっとしたら、過去ときっぱり訣別し、古い神々や国家ばかりか、自由と平等という現代の核心的な価値観さえも超越する、完全に新しい物語を生み出す時が来たのだろうか?現時点では、人類はこうした疑問に関して合意に達するには程遠い。人々が古い物語への信頼を失ったものの、新しい物語はまだ採用していない、幻滅と怒りに満ちた虚無的な時期に、私たちは依然としてある。では、次にどうすればいいのか?最初のステップは、破滅の予言を抑え込み、 パニックモードから当惑へと切り替えることだろう。パニックは傲慢の一形態だ。それは、私はいったい世界がどこへ向かっているか承知している(下へと向かっているのだ)という、うぬぼれた感覚に由来する。当惑はもっと謙虚で、したがって、もっと先見の明がある。「この世の終わりがやって来る!」と叫びながら通りを駆けていきたくなったら、こう自分に言い聞かせてみてほしい。「いや、そうではない。本当は、この世の中で何が起こっているのか、どうしても理解できないのだ」と。

★私たちがどれほど努力したとしても、人類のかなりの割合が雇用市場から排除されるのなら、ポスト・ワーク社会やポスト・ワーク経済やポスト・ワーク政治のための新しいモデルを探求せざるをえないだろう。最初のステップは、私たちが過去から受け継いだ社会モデルや経済モデルや政治モデルは、そのような課題に取り組むのには不適切だと、正直に認めることだ。

★もし人間が生産者としても消費者としても必要とされなくなったなら、何が人間を守って、身体的に生き延びたり、心理的な健康を保ったりできるようにしてくれるのか?私たちは、本格的な危機が起こる前に、その答えを探し始めなければならない。ぐずぐずしていると、手後れになる。前例のない二一世紀の技術的破壊や経済的混乱に対処するためには、新しい社会モデルと経済モデルをなるべく早急に開発する必要がある。そうしたモデルは、仕事ではなく人間を守るという原理に導かれたものであるべきだ。

★じつのところ、人間の潜在能力の全貌は、私たちには想像すらできない。なぜなら、人間の心についてはほとんどわかっていないからだ。それにもかかわらず、私たちは人間の心の探究にはろくに投資しておらず、インターネット接続の速度とビッグデータアルゴリズムの効率を上げることに専心している。気をつけないと、ダウングレードされた人間がアップグレードされたコンピューターを誤用して、自らとこの世界に大惨事をもたらすことになる。

★AIが普及すれば、ほとんどの人の経済価値と政治権力が消滅しかねない。同時に、バイオテクノロジーが進歩すれば、経済的な不平等が生物学的な不平等に反映されることになるかもしれない。超富裕層はついに、自分の莫大な富を使って本当にやり甲斐のあることができるようになる。これまで彼らが買えるものと言えば、ステータスシンボルがせいぜいだったが、間もなく彼らは生命そのものを買えるようになるかもしれない。寿命を延ばしたり、身体的能力や認知的能力をアップグレードしたりするための治療や処置には多額のお金がかかるようであれば、人類は生物学的なカーストに分かれかねない。

★生命の将来について賢明な選択をするためには、ナショナリズムの見地をはるかに超え、グローバルな視点から、いや、宇宙の視点からさえ物事を眺める必要がある。

★今日の国家はみな、情報や科学的発見やテクノロジー上の発明という単一のグローバルな川沿いに暮らしており、その川が私たちの繁栄の基盤であると同時に、私たちの存在に対する脅威でもあるのだ。このグローバルな川の水を治めるには、すべての国が力を合わせるべきだ。

★人は家族、近隣の人々、同業の仲間、国家に同時に忠実であるべきだ。それならば、それに人類と地球を加えてもいいではないか?たしかに、忠誠心の対象が複数あると、ときには葛藤が避けられない。だが、そもそも人生が単純だなどとは、誰も言ってはいない。つべこべ言わずに、対処するべきだ。

★多くの宗教が謙虚さの価値を褒め称えておきながら、けっきょく、自らがこの宇宙で最も重要だと考える。個人には従順さを求めつつも、集団としては目に余るほど傲慢だ。どんな宗教を持つ人でもみな、謙虚さをもっと真剣に受け止めるといいだろう。

★聖書やクルアーン、モルモン書、ヴェーダ、その他どんな聖典も、万能の存在──エネルギーは質量と光速の二乗の積に等しいことや、陽子は電子の一八三七倍の質量があることを定めた万能の存在 ──によって書かれたという証拠は皆無だ。科学によってわかっているかぎりでは、こうした神聖な文書はすべて、想像力に富んだホモ・サピエンスによって書かれた。それらは、社会規範や政治構造を正当化するために、私たちの祖先によって創作された物語にすぎない。

★個人的には、存在の神秘については驚嘆の念が尽きることはない。だが、それがユダヤ教やキリスト教やヒンドゥー教の些末な戒律とどう関係があるのか、理解できたためしがない。たしかにそれらの戒律は、社会秩序を打ち立てて何千年間も維持するのに非常に役に立った。だが、その点で、世俗主義的な国家や機関の法や規則とは根本的な違いはない。

★道徳とは、「神の命令に従うこと」ではない。「苦しみを減らすこと」だ。したがって、道徳的に行動するためには、どんな神話も物語も信じる必要はない。苦しみに対する理解を深めさえすればいい。ある行動が自分あるいは他者に無用の苦しみを引き起こすことが理解できれば、その行動を自然と慎むようになる。

★多くの人は未知の事物を怖がり、どんな疑問にも明快な答えを欲しがる。未知の事物に対する恐れは、どんな暴君にもまして私たちの身をすくませる。人は歴史を通して、何か一連の絶対的な答えに全幅の信頼を寄せないかぎり、人間社会は崩壊してしまうと懸念してきた。ところが実際には、近代史が実証してくれたとおり、無知を認め、難しい疑問を提起するのを厭わない勇敢な人々から成る社会のほうが、誰もが単一の答えをまったく疑わずに受け容れなくてはならない社会よりも、たいてい繁栄するばかりか、平和でもある。自分が真実とするものを失うのを恐れる人々は、世の中をいくつも異なる見地から眺めるのに慣れている人々よりも暴力的になりがちだ。自分には答えられない疑問は、疑問を差し挟めない答えよりも、たいていはるかに優れている。

★私たちがこれから生命の歴史の中で最も重要な決定を下すにあたって、私としては、無謬性 を主張する人よりも無知を認める人を信頼したい。もしあなたが、自分の宗教かイデオロギーか世界観に世界を導いてほしいのなら、私は真っ先に問いたい。「あなたの宗教かイデオロギーか世界観が犯した最大の過ちは何か?その宗教かイデオロギーか世界観は、何を誤解していたか?」と。もしあなたが、何か重大なことを思いつけないのなら、少なくとも私は、あなたを信用しないだろう。

★集団思考と個人の無知の問題につきまとわれているのは、一般の有権者と消費者だけではなく、大統領やCEOも、だ。彼らは大勢の顧問や巨大な情報機関を自由に使えるが、必ずしもそれで状況が改善されるわけではない。世の中を支配しているときには、真実を発見するのは極端なまでに難しい。あまりに忙し過ぎるからだ。たいていの政治指導者や実業界の大物は、絶えず飛び回っている。ところが、どんなテーマであれ、深く掘り下げたければ、たっぷり時間が必要だし、とくに、時間を浪費する特権が必要だ。成果につながらない道も試し、行き止まりも探り、疑いや退屈が入り込む余地も作り、小さな見識の種がゆっくりと生長して花開くのを許す必要がある。もし時間を浪費する余裕がなければ、真実はけっして見つからないだろう。

★もし何らかの問題が自分にとって格別に重要に思えるのなら、関連した科学文献を読む努力をすることだ。ただし、科学文献といっても、専門家の査読を受けた論文や、名の知れた学術出版社が刊行した書籍や、定評のある大学や機関の教授の著作に限る。

★人々が必要としているのは、情報ではなく、情報の意味を理解したり、重要なものとそうでないものを見分けたりする能力、そして何より、大量の情報の断片を結びつけて、世の中の状況を幅広く捉える能力だ。

★自由意志を信じることをやめれば、何に対してもまったく関心が持てなくなり、どこか隅のほうに縮こまり、飢えて死ぬのではないかと、人は想像することがある。だが実際には、自由意志という幻想を捨てると、深い好奇心が湧いてくる。あなたは、何であれ頭に浮かんでくる思考や欲望をしっかり自己と同一視しているかぎり、自分を知ろうという努力をあまりしなくて済む。自分が何者かはもう完全にわかっていると思う。だが、「あれ、この考えは私ではないぞ。ただの生化学的な揺れにすぎない!」といったん悟ると、自分が何者か、どんな存在か、見当さえつかないことにも気づく。これはどんな人間にとっても、これ以上ないほど胸躍る発見の旅の始まりとなりうる。

★この旅のきわめて重要なステップは、「自己」は私たちの心の複雑なメカニズムが絶えず作り出し、アップデートし、書き直す、虚構の物語であると認めることだ。私の心の中には、私は何者で、どこから来て、どこへ向かっており、今この瞬間に何が起こっているかを説明する物語の語り手がいる。

★本当に自分を理解したければ、自分のフェイスブックのアカウントや、自己についての内なる物語と自分を同一視するべきではない。そうする代わりに、体と心の実際の流れに注意を払うべきだ。たいした理由もなく、あなたの命令もなしに、思考や情動や欲望が現れては消えるのがわかるだろう。あちらから、こちらから、と異なる風が吹いてきて、髪を乱すのとちょうど同じように。そしてあなたは、風ではないのとまったく同じで、自分が経験する思考や情動や欲望の寄せ集めでもないし、後から振り返ってそれらについて語る検閲済みの物語では断じてない。あなたは思考や情動や欲望を経験するが、それらを支配してはいないし、所有してもいないし、そのどれでもない。人々は、「私は何者なのか?」と問い、物語を聞かされることを期待する。自分について真っ先に知っておく必要があるのは、あなたは物語ではない、ということだ。


★虚構の物語をすべて捨て去ったときには、以前とは比べ物にならないほどはっきりと現実を観察することができ、自分とこの世界についての真実を本当に知ったなら、人は何があっても惨めになることはない。だがもちろん、言うは易く行なうは難し、だ。私たち人間は、虚構の物語を創作してそれを信じる能力のおかげで世界を征服した。したがって私たちは、虚構と現実を見分けるのが大の苦手だ。これまでずっと、この違いを見過ごすことに、私たちの生存がかかっていた。


★(ヴィパッサナー瞑想について)私は自分の感覚を観察する一〇日間のこの講習で、そのときまでの全人生で学んだことよりも多くを、自分自身と人間一般について学んだように思う。そして、そうするためには、どんな物語も学説も神話も受け容れる必要はなかった。あるがままの現実を観察するだけでよかった。私が気づいたうちで最も重要なのは、自分の苦しみの最も深い源泉は自分自身の心のパターンにあるということだった。何かを望み、それが実現しなかったとき、私の心は苦しみを生み出すことで反応する。苦しみは外の世界の客観的な状況ではない。それは、私自身の心によって生み出された精神的な反応だ。これを学ぶことが、さらなる苦しみを生み出すのをやめるための最初のステップとなる。 私は二〇〇〇 年に初めて講習を受けて以来、毎日二時間瞑想するようになり、毎年一か月か二か月、長い瞑想修行に行く。瞑想は現実からの逃避ではない。現実と接触する行為だ。私は毎日少なくとも二時間、実際に現実をありのままに観察するが、残る二二時間は、電子メールやツイートの処理やかわいい子犬の動画の鑑賞に忙殺される。瞑想の実践が提供してくれる集中力と明晰さがなければ、『サピエンス全史』も『ホモ・デウス』も書けなかっただろう。

★数千年のうちに、人間は何百もの瞑想のテクニックを開発してきたが、その原理や効果はさまざまだ。私はそのうち、ヴィパッサナーという一つのテクニックしか自ら経験していないので、確かなことを語れるのはそのテクニックについてだけだ。ヴィパッサナーは他の多くの瞑想テクニックと同じで、ブッダによって古代インドで発見されたと言われている。何世紀もの間に、多くの場合、裏付けとなる証拠がいっさいないまま、おびただしい数の理論や物語がブッダのものとされてきた。だが、瞑想するためには、そのうちのどれ一つとして信じる必要はない。私にヴィパッサナーを教えてくれたゴエンカは、とても実践的な種類の指導者だった。心を観察するときには、間接的な説明や宗教の教義や哲学的な推量はすべて脇に置き、自分自身の経験と、何であれ実際に出合う現実に的を絞らなくてはいけないと、受講生に繰り返し指示した。毎日大勢の受講生が彼の部屋に来て、指導を求め、質問を投げかけた。部屋の入口には、こんな掲示があった。「理論的な議論や哲学的な議論は避け、質問は自分の実際の訓練に関連した問題に絞ってください」 実際の訓練とは、体の感覚と、感覚に対する精神的な反応を、組織立った、連続的で客観的なやり方で観察し、それによって心の基本的なパターンを明らかにすることを意味する。人は瞑想を、至福と恍惚の特別な経験の追求に変えてしまうことがある。とはいえ実際には、意識はこの世で最も大きな謎であり、熱さや痒さなどのありきたりの感覚も、有頂天の感覚や宇宙との一体感に少しも劣らぬほど不可思議なのだ。ヴィパッサナーの瞑想者は、特別な経験の探求にはけっして乗り出さないように戒められ、自分の心の現実を理解することに集中するよう言われる。その現実がどんなものであろうとも。

★自己観察は昔から難しかったが、時間とともにさらに難しくなっているかもしれない。歴史が展開するにつれ、人間は自分自身についてますます複雑な物語を創り出し、そのせいで、私たちが本当は何者かを知るのもますます困難になった。これらの物語は、大勢の人間を統一し、力を蓄積し、社会の調和を維持することを目的としていた。それらは、何十億もの飢えた人々に食べ物を与え、彼らが激しく争ったりしないようにするために、不可欠だった。人々が自分を観察しようとしたときにたいてい見つけたのは、こうした既成の物語だった。制約のない探究はあまりに危険だった。社会秩序を損ないかねなかったからだ。テクノロジーが進歩するうちに、二つのことが起こった。第一に、燧石で作ったナイフが徐々に核ミサイルに進化すると、社会秩序を乱すのは、前より危険になった。第二に、洞窟壁画が長い時間をかけてテレビ放送に進化すると、人々を騙すのが前より簡単になった。近い将来、アルゴリズムはこの過程の仕上げをし、人々が自分自身についての現実を観察するのをほぼ 不可能にするかもしれない。そのときには、私たちが何者で、自分自身について何を知るべきかは、私たちに代わってアルゴリズムが決めることになるだろう。

★あと数年あるいは数十年は、私たちにはまだ選択の余地が残されている。努力をすれば、私たちは自分が本当は何者なのかを、依然としてじっくり吟味することができる。だが、この機会を活用したければ、今すぐそうするしかないのだ。